[二、欣求淨土 聖衆倶會]
第七に聖衆倶會の樂とは、『經』(小經)に云ふが如し。「衆生聞かん者は、當に發願して彼の國に生ぜんと願ずべし。所以は何ん、是の如き諸の上善人と倶に一處に會することを得ればなり」と。已上 彼の諸の菩薩・聖衆の德行は、思議すべからず。普賢菩薩言く。「若し衆生有りて、善根を種ゑざるもの、及び少善を種わる聲聞・菩薩は、猶尚我が名字を聞くことを得ず、況や我が身を見んことをや。若し衆生有りて我が名を聞くこと得ば、阿耨菩提に於て復退轉せず。乃至夢中に、我を見聞せん者も、亦復是の如し」と。『華嚴經』(唐譯法界品) 又云く。「我常に諸の衆生に隨順して、未來一切の劫を盡くして、恒に普賢の廣大の行を修し、無上大菩提を圓滿せん。 普賢の身相は虚空の如し、眞に依て住すれば國土に非ず。諸の衆生の心の所欲に隨ひて、普き身を示現して一切に等しくす。 一切の刹中の諸佛の所に、種種の三昧もて神通を現じ、一一の神通は悉く十方の國土に周遍して遺す者無し。一切の刹の如來の所の如く、彼の刹塵の中にも悉く亦然なり」と。『同經』偈(四十華嚴卷四〇・唐譯卷七)「文殊師利大聖尊は、三世の諸佛を以て母と爲す、十方の如來の初發心は、皆是文殊敎化の力なり。一切世界の諸の有情、名を聞き身及び光相を見、并に隨類の諸の化現を見ば、皆佛道を成ぜんこと思議し難し」と。『心地觀經』(卷三) 若し但名を聞かん者は、十二億劫の生死の罪を除き、若し禮拜し供養せん者は、恒に佛の家に生れ、若し名字を稱せんこと一日七日すれば、文殊必ず來らん。若し宿障有るものは、夢の中に見ることを得て所求圓滿せん。若し形像を見ん者は、百千劫の中にも惡道に墮せず。若し慈心を行ずる者は、即ち文殊を見ることを得ん。若し名を受持し讀誦すること有らん者は、設ひ重障有らんも阿鼻の極惡猛火に墮せずして、常に他方の淸淨の佛土に生ぜん。『文殊般涅槃經』意。彼の形像、經に廣く説くが如し 又百千億那由他の佛の衆生を利益したまふこと、文殊師利の一劫の中に於て作す所の利益にも及ばず。故に若し文殊師利菩薩の名を稱せん者は、