是最上の菩提心なり。『止觀』第一を見るべし 又『思益經』(卷三意)に云く。「一切の法は法に非ずと知り、一切の衆生は衆生に非ずと知る。是を菩薩無上菩提心を發すと名く」と。又『莊嚴菩提心經』に云く。「菩提心とは、有るに非ず造るに非ず、文字を離れたり。菩提は即ち是心なり、心は即ち是衆生なり。若し能く是の如く解するを、是を菩薩菩提を修すと名く。菩提は過去・未來・現在に非ず。是の如く心と衆生と亦過去・未來・現在に非ず、能く是の如く解するを名けて菩薩と爲す。然も是の中に於て、實には所得無し、所得無きを以ての故に得。若し一切の法に於て所得無き、是を菩提を得と名く。始行の衆生の爲の故に菩提有りと説く。乃至 然も是の中に於て、亦心有ること無く、亦心を造る者も無し。亦菩提有ること無く、亦菩提を造る者も無し。亦衆生有ること無く、亦衆生を造る者も無し」と。乃至云云 此の二の四弘に、各々二の義有り。一に云く、初の二願は衆生の苦・集二諦の苦を拔き、後の二願は衆生に道・滅二諦の樂を與ふと。二に云く、初の一は他に約し、後の三は自に約すと。謂く衆生の二諦の苦を拔き、衆生に二諦の樂を與ふることは、總じて初願の中に在り。此の願を究竟し圓滿せんと欲するが爲に、更に自身に約して、後の三願を發すなり。『大般若經』(卷七一意)に云ふが如し。「有情を利せんが爲に大菩提を求む、故に菩薩と名く。而も依著せず、故に摩訶薩と名く」と。已上 又前の三は是因にして是別なり、第四は是果にして是總なり。四弘已りて後は云ふべし、自他法界同じく利益し共に極樂に生じて佛道を成ぜんと。心の中に應に念ふべし、我と衆生と共に極樂に生じて、前の四弘願を圓滿し究竟せんと。若し別願有らば、四弘の前に之を唱へよ。若し心不淨ならば正道の因に非ず。若し心に限有らば、大菩提に非ず。若し誠を至すこと無くば、其の力強からず。是の故に要ず淸淨深廣の誠心を須ひよ、勝他・名利等の事の爲にせざれ。而も佛眼所照の無盡法界の一切の衆生、一切の煩惱、