答。是の如きの解を生ずるを之を名けて惡取空の者と爲す、專ら佛弟子に非ず。今反質して云はん。汝若し煩惱即菩提なるが故に、欣ひて煩惱惡業を起さば、亦應に生死即涅槃なるが故に、欣ひて生死の猛苦を受くべし。何が故ぞ刹那の苦果に於ては、猶堪へ難しと厭ひ、永劫の苦因に於ては、自恣に作らんことを欣ふや。是の故に當に知るべし、煩惱と菩提とは體は是一なりと雖も、時用異なるが故に染淨不同なり。水と氷との如く、亦種と菓との如し。其の體は是一なれども、時に隨ひて用異なるなり。此に由て道を修する者は、本有の佛性を顯せども、道を修せざる者は、終に理を顯すこと無し。『涅槃經』の三十二(北本卷三五)に云ふが如し。「善男子、若し人有りて問はん、是の種子の中には果有りや果無きやと。應に定んで答へて言ふべし、亦は有り亦は無しと。何を以ての故に、子を離れての外に果を生ずること能はず、是の故に有りと名く。子未だ牙を出さず、是の故に無しと名く。是の義を以ての故に、亦は有り亦は無しと。所以は何ん。時節は異なること有れども、其の體は是一なり。衆生の佛性も亦復是の如し。若し衆生の中に別に佛性有りと言はば、是の義然らず。何を以ての故に、衆生即佛性、佛性即衆生なればなり。直だ時の異なるを以て淨・不淨有るなり。善男子、若し問ふもの有りて言はん、是の子は能く果を生ずるや不や、是の果は能く子を生ずるや不やと。應に定んで答へて言ふべし、亦は生じ生ぜず」と。已上 問。凡夫は勤修に堪へず、何んが虚しく弘願を發さんや。答。設ひ動修に堪へざらんも、猶須く悲願を發すべし、其の益の無量なること、前後に明すが如し。調達は六万藏の經を誦したれども、猶那落を免れず、慈童は一念の悲願を發して、忽ち兜率に生ずることを得たり。則ち知る、昇沈の差別は、心に在りて行に非ざることを。何に況や誰の人か一生の中に、一びも南無佛と稱せず、一食をも衆生に施さざらんや。須く此等の微少の善根を以て、皆應に四弘の願行に攝入すべし。故に行と願と相應して虚妄の願とは爲らざるなり。『優婆塞戒經』の第一に云ふが如し。「若し人一心に生死の過咎、涅槃の安樂を觀察すること能はずば、是の如きの人は、復慧施・持戒・多聞なりと雖も、