菩薩の初發心は究竟して測るべからず」と。又『出生菩提心經』の偈に云く。「若し此の佛刹の諸の衆生をして、信心に住し及び戒を持たしめんに、彼の最上の大福聚の如きは、道心の十六分にも及ばず。 若し諸の佛刹の恒河沙のごとくならんに、皆悉く寺を造りて福を求めんが故にし、復諸の塔を造ること須彌の如くせんも、道心の十六分にも及ばず。乃至 是の如き人等復勝法をえんも、若し菩提を求めて衆生を利せば、彼等衆生の最勝なる者なり。此に比類無し、況や上有らんや。是の故に此の諸の法を聞くことを得ば、智者常に法を樂ふの心を生じて、當に無邊の大福聚を得、速に無上道を證すること得べし」と。『寶積經』の偈(卷九六)に云く。「菩提心の功德若し色方分有らば、虚空界に周遍して、能く容受する者無けん」と云云。菩提心には是の如きの勝利有り。是の故に迦葉菩薩の禮佛の偈(北本涅槃經卷三八・南本涅槃経卷三四)に云く。「發心と畢竟とは二にして別無し。是の如きの二心において前の心難し。自ら度することを得ざるに先づ他を度せんとす。是の故に我初發心を禮す」と。又彌伽大士は善財童子の已に菩提心を發せるを聞きて、即ち師子の座より下り、大光明を放ちて三千界を照らし、五體を地に投げて童子を禮讃せりと。已上、總じて勝利を顯す 問。縁事の誓願も亦勝利有りや。答。縁理の如かずと雖も、此亦勝利有り。何を以てか知るとならば、上品下生の業に、但無上道心を發すと云ひて、第一義を解すとは云はず。故に知る、唯是事の菩提心なることを。若し爾らずば、彼の中生の業と應に別無かるべし。其の一『往生論』に菩提心を明かして、但云はく。「一切衆生の苦を拔くを以ての故に。 一切衆生をして大菩提を得しむるを以ての故に。衆生を攝取して彼の國土に生ぜしむるを以ての故に」と云云。若し縁事の心に往生の力無くば、論主豈縁理の心を示さざらんや。其の二『大論』の第五の偈(卷四)に云く。「若し初發心の時、當に作佛せんと誓願せば、已に諸の世間に過えたり、應に世の供養を受くべし」と云云。此の『論』にも亦但「願作佛」と云へり。