餘の事に向けず、但愛惜積集して、薩婆若に向はしむ」と。已上 問。若し爾らば唯應に菩提に廻向すべし。何が故ぞ更に極樂に往生すと云ふや。答。菩提は是果報にして、極樂は是花報なり。果を求めん人、盍ぞ花を期せざらんや。是の故に九品の業には皆廻向して極樂國に生ぜんと願求すと云へり。 問。發願と廻向と何の差別か有るや。答。誓ひて求むる所を期す、之を名けて願と爲し、所作の業を廻して、彼に趣向する、之を廻向と謂ふ。 問。薩婆若と无上菩提と、二は差別无し。何ぞ分ちて二と爲すや。答。『論』に廻向を明かすに、之を分ちて二と爲せり。故に今も之に順ず。更に『論』の文を撿せよ。 問。次に何が故ぞ所有の事を觀じて、悉く空ならしむるや。答。『論』(智度論卷四六)に云く。「着心取相の菩薩の修せる福德は、草より生ぜる火の滅することを得べきこと易きが如し。若し實相を躰得せる菩薩の、大悲心を以て行ぜる衆の行は、破することを得べきこと難し、水中の火の能く滅する者无きが如し」と。云云 問。若し爾らば應に唱へて空にして所得无しと言ふべし。何が故ぞ今法界に廻施すち云ふや。答。理、實に然るべし。然れども今は國土の風俗に順ずるが故に法界と云ふ。理亦違ふこと无し。然る所以は、法界は即ち是圓融无作の第一義空なり。所修の善を以て廻趣して彼の第一義空と相應せしむるを、法界に廻施すと名くるなり。 問。最後に何の意ありてか、唱へて大菩提に廻向すと言ふや。答。此は是薩婆若と相應せしむるなり。此れ亦土風に順じて之を末後に置く。薩婆若と言ふは即ち是菩提なり。前の『論』文の如し。 問。有相の廻向には利益无きや。答。上に數々論ぜるが如し。勝劣有りと雖も、猶巨益有り。『大論』の第七に云ふが如し。「小因の大果、小縁の大報有り。佛道を求めて一偈を讃じ、一び南无佛と稱し、一捻の香を燒かんも、必ず作佛することを得るが如し。何に況や諸法は實相にして、不生不滅なり、不生にあらず不滅にあらずと聞知して、而も因縁の業を行ずれば亦失はざるなり」と。已上 此の文深妙なり、髻中の明珠なり。則ち知る、我等成佛せんこと疑无きことを。