一切の時に於て、心に恒に想ひ巧め。譬へば人有りて他に抄掠せられ、身下賎と爲りて、備に艱辛を受けんに、忽ち父母を思ひ、走りて本國に歸らんと欲すれども、行裝未だ辨ぜず、由他鄕に在りて日夜に思惟す。苦み忍ぶに堪へざれども、時として暫も捨てて耶孃を念はざること无し。計を爲すこと既に成り、便ち歸りて達すること得、父母に親近して、縱任に歡娯せんが如し。行者も亦爾なり。往煩惱に因て善心を壞亂し、福智の珍財、并に皆散失せり。久しく生死に沈みて制せられて自由ならず。恒に魔王の與に而も僕使と作りて六道に驅馳せられ、身心を苦切す。今善縁に遇ひて、忽ち彌陀の慈父の弘願に違せずして羣生を濟拔したまふことを聞き、日夜に驚忙し發心して往かんことを願ふ。所以に精勤倦からず、當に佛恩を念じ報の盡くるを期と爲して、心に恒に計念すべし」と。導師(禮讃意)の云く。「心心相續して餘の業を以て間へず、又貪瞋等を以て間へず、隨て犯せば隨て懺して、念を隔て時を隔て日を隔てしめず、常に淸淨ならしめよ」と。私に云く。晝夜六時、或は三時・二時に、要ず方法を具して、精勤修習せよ。其の餘の時處は、威儀を求めず、方法を論ぜず。心口に廢すること无くして、常に應に佛を念ずべし。四には无餘修なり。『要決』に云く。「專ら極樂を求めて、彌陀を禮念し、但て諸餘の業行は、雜起せしめざれ。所作の業は、日別に須く念佛讀經を修して餘課を留めざるべきのみ」と。導師(禮讃)云く。「專ら彼の佛の名を稱して、彼の佛及び一切の聖衆等を專念し專想し專禮し專讃して、餘業を雜へざれ」と。已上  問。其の餘の事業に、何の過失有りや。答。『寶積經』の九十二に云く。「若し菩薩有りて樂ひて世業を作し、衆務を營まば、應ぜざる所と爲す。我説く、是の人は生死に住る」と。又同じき『偈』(寶積經卷九二)に云く。「戲論諍論の處は、多く諸の煩惱を起す。智者應に遠離して百由旬を去つべし」と。云云 自餘の方法は、具に『止觀』の如し。 問。若し爾らば、在家の人は、念佛の行に堪へ難からん。答。世俗の人は、縁務を棄つること難くば、但常に念を西方に繋けて、