誠心に應に彼の佛を念ずること、『木槵經』の瑠璃王の行の如くすべし。又迦才の『淨土論』(卷中)に云く。「譬へば龍の行くときは雲即ち之に隨ふが如く、心若し西に逝けば、業も亦之に隨ふ」と。云云  問。既に知んぬ、修行には總じて四の相有ることを。其の修行の時の用心云何。答。『觀經』に云く。「若し衆生有りて、彼の國に生れんと願ぜん者は、三種の心を發して、即便ち往生す。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり」と。善導禪師(禮讃)云く。「一に至誠心とは、謂く禮拜・讃嘆・念觀の三業は、必ず眞實を須ふるが故に。二に深心とは、謂く自身は是煩惱を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流轉し、未だ火宅を出でずと信知す。今彌陀の本弘誓願は、名号を稱すること下至十聲・一聲等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、乃し一念に至るまで疑心有ること无し。三に廻向發願心とは、謂く所作の一切の善根、悉く皆廻向して、往生を願ずるが故なり。此の三心を具して必ず往生を得。若し一心少けぬれば即ち生ずることを得ず」と。之れ略抄す。經文に上品上生在りと雖も、禪師の釋の如くは、理九品に通ず。餘師の釋具すること能はず 『鼓音聲經』に云く。「若し能く深く信じて狐疑无き者は、必ず阿彌陀の國に往生すること得」と。『涅槃經』(北本卷三五・南本卷三二)に云く。「阿耨菩提は信心を因と爲す。是の菩提の因は、復无量なりと雖も、若し信心を説かば、則ち已に攝盡す」と。已上 明かに知んぬ、道を修せんには信を以て首と爲すことを。又善導和尚(禮讃意)云く。「若し入觀及び睡時には、應に此の願を發すべし。若しは坐若しは立、一心合掌し、面を正しく西に向け、十聲阿彌陀佛・觀音・勢至・諸菩薩・淸淨大海衆と稱し竟りて、而も佛・菩薩及び極樂界の相を見たてまつらんとの願を發せ。即ち意に隨ひて入觀し、及び睡らんときに見ることを得ん。至心ならざるをば除く」と。 問。行者常途に、往生を計念する、其の相何似。答。前に引く所の『要決』の本國に歸らんと欲する譬、是其の相なり。又『安樂集』(卷上)に云く。「譬へば人有りて空曠の迥なる處に於て、怨賊の劒を拔き勇を奮ひ直に來りて殺さんと欲するに値遇す。