此の人徑に走りて一河の渡るべきを觀る。未だ河に到るに及ばず、即ち此の念を作さく。我河の岸に至りなば、衣を脱ぎて渡るとや爲ん。衣を著て浮ぶとや爲ん。若し衣を脱ぎて渡らんには、唯恐らくは暇無からん。若し衣を著て浮かばんには、復首領全くし難からんことを畏ると。爾の時、但一心に河を渡るの方便を作すことのみ有りて、餘の心想間雜すること无からんが如し。行者も亦爾なり。阿彌陀佛を念ぜん時も、亦彼の人の渡ることのみを念ふが如く、念念に相次で餘の心想間雜すること無く、或は佛の法身を念じ、或は佛の神力を念じ、或は佛の智慧を念じ、或は佛の毫相を念じ、或は佛の相好を念じ、或は佛の本願を念ぜよ。名を稱することも亦爾なり。但能く專至に相續して斷えざれば、定んで佛前に生ぜん」と。已上 元曉師之に同じ。 問。念佛三昧は唯心に念ずとや爲ん、亦口にも唱ふるとや爲ん。答。『止觀』の第二(上)に云ふが如し。「或は唱と念と倶に運び、或は先に念じ後に唱へ、或は先に唱へ後に念じ、唱と念と相繼ぎて休息する時无し。 聲聲念念、唯阿彌陀に在り」と。又感禪師(群疑論卷七)云く。「觀經に言く。是の人苦に逼められて、念佛するに遑あらず。善友敎令すらく、阿彌陀佛を稱すべしと。是の如く心を至して聲をして絶えざらしむと。豈苦惱に逼められて、念想成じ難きも、聲をして絶えざらしめば、至心に便ち得るに非ずや。今此の聲を出して、念佛定を學することも、亦復是の如し。聲をして絶たざらしめば、遂に三昧を得て、佛・聖衆の皎然として目の前にましますを見ん。故に大集日藏分に言く。大念は大佛を見、小念は小佛を見ると。大念とは大聲に佛を稱するなり、小念とは小聲に佛を稱するなり。斯れ即ち聖敎なり、何の惑か有らん。現に見る即今の諸の修學の者、唯須く聲を勵まして念佛すべし、三昧成じ易からん。小聲に佛を稱せんには遂に馳散多し。此れ乃ち學者の知る所にして、外人の曉るところに非ず」已上、彼の『經』に但云く。「多を欲するは多を見、小を欲するは小を見る」等と云云。然るに感師既に三昧を得たり。彼の釋する所、應に仰ぎて信受すべし。更に諸本を勘へよ。小念は小を見、大念は大を見るの文、日藏經第九に出でたり
[五、助念方法 對治懈怠]
第三に對治懈怠とは、行人恒時に勇進すること能はず。或は心蒙昧となり、或は心退屈せん。爾の時に應に種種の勝事に寄せて自心を勸勵すべし。