前の九号は皆別義に從ひ、前の九号の名義の功德を惣て佛世尊と爲す。初めの三号を説かんに、劫を歴とも周め難く、阿難の領悟すら能く具悉すること莫けん。更に六号を加へて以て佛の名を製したまへり。勝德既に圓かなれば、其を念ずるは大善なり」と。已上『要決』 『華嚴』(唐譯卷二三)の偈に云く。「若し諸の衆生有りて、未だ菩提心を發さず、一び佛の名を聞くことを得ば、决定して菩提を成ず」と。『首楞嚴經』の文、下の料簡門の如し 應に是の念を作すべし。我今既に佛の尊号を聞くことを得たり、願はくは我當に作佛して十方の諸佛の如くなるべし。 三には佛の相好の功德なり。『六波羅密經』(卷七意)に云く。「諸の世間に於て、所有三世の一切の衆生、學・无學の人、及び辟支佛、是の如き有情の无量无邊の所有の功德は、如來の一毛の功德に比するに、百千万分の中の其の一にも及ばず。是の如き一一の毛端は、皆如來の无量の功德より出生する所なり。一切の毛端の所有功德もて、共に一髮の功德を成ず。是の如き佛の髮は八万四千ありて、一一の髮の中に各々上の如きの功德を具せり。是の如く合集して共に一の隨好の功德を成じ、一切の好の功德もて共に一の相の功德を成ず。一切の相の功德合集して百千倍に至り、眉間の毫相の功德を成ず。其の相圓滿にして宛轉して右に旋り、頗迦寶の如く、明淨鮮白なり。夜闇の中にして猶し明星の如し。毫相は之を舒ぶれば、上は色界の阿迦膩吒天に至り、之を卷けば舊の如く復毫相と爲りて、眉間に住る。毫相の功德、百千倍に至りて肉髻の相を成ず。是の如き肉髻の、千倍の功德は、梵音聲相の功德に及ばず」と。又『寶積經』に無數の挍量有り、學者勘ふべし。又『大集念佛三昧經』の第五に云く。「此の如き世界、及び十方の無量無邊の諸の世界の中の所有衆生、假使ひ盡く皆一時に成佛して、彼の諸の世尊、無量劫を經て、皆還りて佛の一毛の功德を嘆じたまふとも、終に亦盡くさず」と。已上