其の光明威神功德を聞きて、日夜に稱説し心を至して斷えざれば、意の所願に隨ひて、其の國に生るること得ん。我無量壽佛の光明威神巍巍殊妙なるを説かんに、晝夜一劫すとも盡すこと能はず」と。已上取意。『平等經』は別して「頂光」と云ひ、『觀經』は惣じて「光明」と云ふ 『譬喩經』の第三に釋迦文佛の光相を明して云く。「佛滅したまひて百年に阿育王有り、國内の民庶、佛の遺典を歌へり。王意に信ぜずして念言すらく。佛何なる德の人に過ぎ踰えたる有りて共に專ら信じて其の文を誦習するやと。即ち大臣に問はまく。國の中に頗し佛を見し者有りやと。答て曰く。聞くならく、波斯匿王の妹、出家して比丘尼と作り、年西垂に在り、佛を見しと云言ふと。王即ち自ら出でて往詣して問て曰く。道人佛を見しや不やと。答て云く。實に爾なり。問て曰く。何の殊異なることか有りしと。道人曰く。佛の功德は巍巍として量り難し。我が愚淺の能く之を陳ぶる所に非ざれども、粗々一事を説かば殊特なることを知るべし。我時に八歳なりき。世尊來りて王宮に入りたまへり。即ち前みて足を禮す、頭の上の金の釵、墮落して地に在り。之を求むるに得ず。其の所以を恠みしに、如來過ぎ去りたまひし足の跡に千輻輪有りて光明を現じて晃き、七日にして即ち滅せり。登の時、金の釵は地と色を同じくす、是を以て見えざりき。光滅して後釵を得たり。乃ち知らん、殊特爲ることを。王聞きて歡喜し、心煥かに開悟しぬ」と。略抄 『華嚴經』(唐譯卷一一)の偈に云く。「一一の毛孔より光雲を現じ、普く虚空に遍じて大音を發す。諸の幽冥の所をも照らさざる靡し。地獄の衆苦も咸く減せしめたまふ」と。應に是の念を作すべし。願はくは佛光我を照らして生死の業苦を滅せしめたまへと。 五には能く害する者无し。『寶積經』の三十七(意)に云く。「風劫の起る時には、世に大風有り、僧伽多と名く。彼の風此の三千世界の須彌・鐵圍、及び四大洲、八万の小洲、大山・大海を擧ぐること、高さ百踰繕那、乃至無量百千踰繕那にして、已に碎末して塵と爲す。又撃ちて焔摩天宮を壞滅す、乃至遍淨天の、所有宮殿亦皆散滅す。即ち此の風を以て如來の衣を吹かんに、一毛の端際をも、