動かすこと能はず。何に況や衣の角、及び全衣をや」と。已上 『十住論』(卷一一)に云く。「諸佛の不可思議なること、喩を假りて知るべし。假使ひ一切の十方世界の衆生をして、皆勢力有らしめ、設し一の魔有りて、爾所の勢力有らんに、復十方の一一の衆生をして力惡魔の如くならしめ、共に佛を害せんと欲せんに、尚佛の一毛をすら動かすこと能はず。況や害する者有らんや」と。『偈』(十住毗婆沙論卷一二)に云く。「若し諸の世間の中に、佛を害すること有らんと欲せん者は、是の事皆成ぜず。不殺の法を成じたまへるを以てなり」と。應に是の念を作すべし、願はくは我當に佛の金剛不壞の身を得んと。 六には飛行自在なり。同じき『論』(十住毗婆沙論卷一〇意)に云く。「佛は虚空に於て擧足下足・行住坐臥、皆自在を得たまへり。大聲聞の若きは、神通自在にして、一日に五十三億二百九十六万六千の三千大千世界を過ぐ。是の如き聲聞の百歳に過ぐる所を、佛は一念に過ぎたまふ。乃至恒河の中の沙の、一の沙を一河と爲し、是の諸の恒河沙の大劫に過ぐる所の國土を、佛は一念の中に過ぎたまふ。若し寶蓮華を蹈みて去らんと欲したまはば、即ち能く成辨したまふ。是の如く飛行すること、一切無碍なり」と。『觀佛經』(卷六)に云く。「虚空に於して足を擧げて行きたまふ時、千輻輪の相より、皆八万四千の蓮華を雨らす。是の如き衆の華に、塵數の佛有まして亦虚空を歩みたまふ」と。已上略抄 又「空を蹈みて行きたまふに、而も千輻輪地の際に現ず。悅意妙香の鉢特摩花、自然に踊出して如來の足を承く。若し畜生趣の一切の有情、如來の足の爲に觸れられたる者は、七夜を極め滿つるまで諸の快樂を受け、命終の後には、善趣の樂世界の中に往生せん」と。『寶積經』(卷四〇) 若し四十里の盤石を以て、色究竟天より下せば、一万八千三百八十三年を經て此の地に到る。直に下るすら尚爾なり。之を推して應に知るべし。聲聞の飛行と、如來の飛行とは、展轉して不可思議なることを。『花嚴經』(晋譯卷一〇)の慧林菩薩讃佛の偈に云く。「自在神通力は、无量にして思議すること難し。