來ること无く亦去ること无く、法を説きて衆生を度したまふ」と。應に是の念を作すべし。願はくは我神通を得て諸の佛土に遊戲せんと。 七には神力無碍なり。『十住論』(卷一〇意)に云く。「佛は能く恒河沙等の世界を末にして、微塵の如くならしめ、又能く還りて合せたまふ。或は又能く无量无邊阿僧祇の世界を變じて、皆金・銀等と作らしめ、又能く恒河沙等の世界の大海の水を變じて、皆乳・蘇等と爲らしめたまふ」と。已上 『淨名經』(卷中意)に菩薩の不思議解脱を説きて云く。「三千大千世界を、斷取すること、陶家の輪の如くにして、右の掌の中に著け、恒河沙の世界の外に擲げ過りたまふに、其の中の衆生は、己が住する所を覺えず知らず。又復還て本處に置くに、都て人をして往來の想有らしめず。而も此の世界の本相は故の如し。又下方過恒河沙等の諸佛の世界に於て、一佛土を取りて上方過恒河沙无數の世界に擧げ著くること、針鋒を持して一棗葉を擧ぐるが如くするも、而も嬈す所无し。須彌山を以て、芥子の中に納れ、四大海を以て一毛孔に入るるも亦復是の如し。其の中の衆生は、覺えず知らず。唯應に度すべき者のみ、乃ち之を知見す」と。已上 菩薩すら尚爾なり。何に況や佛力をや。故に『度諸佛境界經』に云く。「能く十方世界をして一毛孔に入らしめ、乃至 一微塵に於て能く无量无數不可説の世界を現ずるに、一切衆生、亦迫迮无し。无量无數不可説劫の、威儀果報の事を能く一念の中に於て現じ、一念の威儀果報の事を无量无數不可説劫の中に於て現ず。是の如きの所作は心に功用无く、思惟を作さず」と。『華嚴經』(晋譯卷一四)の眞實幢菩薩の偈に云く。「一切の諸の如來は、神通力自在なり。悉く三世の中にして、之を求むるに得べからず」と。應に是の念を作すべし。我今亦知らず、佛神力の爲に轉ぜられて何れの佛土にか在り、誰の毛孔にか在るを。我何れの時に於てか之を覺知することを得んと。 八には隨類化現なり。『十住論』(卷一〇意)に云く。