「佛は一念の中に、十方の无量无邊、恒河沙等の世界に於て、无量の佛身を變化したまふ。一一の化佛も、亦能く種種の佛事を施したまふ」と。已上、四事神境通 『度諸佛境界經』に云く。「如來の所現は、異の功用无く、異の思惟无し。衆生の性に隨ひて自ら見ること不同なり。十五日の夜、閻浮提の人、各々月は現に其の上に在りと見れども、月は作意して我其の上に現ぜんとせざるが如し」と。『華嚴』(唐譯卷一九)の偈に云く。「如來の廣大の身は法界を究竟したまへり。此の座を離れずして、而も一切の處に遍じたまふ」と。又(唐譯卷七)云く。「智慧甚深の功德海もて、普く十方の无量の國に現じたまふ。諸の衆生の見るべき所に隨ひて、光明遍く照らして法輪を轉じたまふ」と。應に是の念を作すべし。願はくは我當に遍法界の身を見たてまつらんと。 九には天眼明徹なり。『十住論』(卷一一)に云く。「大力の聲聞は、天眼を以て小千國土を見、亦中の衆生の生時・死時を見る。小力の辟支佛は、十の小千國土を見、中の衆生の生時・死時を見る。中力の辟支佛は、百の小千國土を見、中の衆生の生時・死時を見る。大力の辟支佛は、三千大千國土を見、中の衆生の生死の所趣を見る。諸佛世尊は、无量无邊不可思議の世間を見、亦是の中の衆生の生時・死時を見たまふ」と。已上 『華嚴經』(唐譯卷三)の偈に云く。「佛眼は廣大にして邊際无く、普く十方の諸の國土を見たまふ。其の中の衆生は量るべからざれども、大神通を現じて悉く調伏したまふ」と。應に是の念を作すべし。今彌陀如來は、遙に我が身業を見たまふらんと。 十には聞聲自在なり。『十住論』(卷一〇)に云く。「假令ひ恒河沙等の三千大千世界の衆生、一時に言を發し、又一時に百千種の伎樂を作さんに、若しは遠若しは近、意に隨ひて能く聞きたまふ。若し中に於て一の音聲のみを聞かんと欲したまはば、意に隨ひて聞くこと得たまひ、餘は聞えず。又无邊の世界を過ぎて最も細き聲をも皆亦聞くことを得たまふ。若し衆生をして聞かしめんと欲したまはば、能く聞くことを得しめたまふ」と。略抄