『華嚴』(唐譯卷一三)の文殊の偈に云く。「一切世間の中の所有の諸の音聲を、佛智皆隨ひて了したまふに、亦分別有ること无し」と。已上 應に是の念を作すべし。今彌陀如來は、定んで我が所有語業を聞きたまふらんと。 十一には知他心智なり。『十住論』(卷一〇)に云く。「佛は能く无量无邊の世界の現在の衆生の心、及び諸の染淨の所縁等を知りたまひ、又能く无色の衆生の諸の心を知りたまふ」と。略抄 『華嚴』(唐譯卷一三)の文殊の偈に云く。「一切衆生の心、普く三世に在るを、如來は一念に於て一切悉く明かに達したまふ」と。應に是の念を作すべし。今彌陀如來は、必ず我が意業を知りたまふらんと。 十二には宿住隨念智なり。『十住論』(卷一一)に云く。「佛若し自身及び一切衆生の、无量无邊の宿命を念ぜんと欲したまはば、一切の事を皆悉く知りたまひ、過恒河沙等の劫の事をも知りたまはずといふこと有ること无し。是の人は何れの處に生れ姓名・貴賎・飮食・資生・苦樂・所作の事業、所受の果報、心は何なる所行、本は何くより來る、是の如き等の事を即ち能く知見したまふ」と。『偈』(十住毘婆沙論卷一二)に云く。「宿命智无量にして天眼の見无邊なり。一切の人天の中には、能く其の限を知るもの无し」と。應に念ずべし、願はくは佛、我が宿業をして淸淨ならしめたまへと。 十三には智惠無碍なり。『寶積經』の三十七に云く。「假使ひ人有りて恒河沙等の世界の所有一切の草木を取り、悉く燒きて墨と爲し、他方恒河沙等の世界の大海に擲げ置き、百千歳に於て就きて以て之を磨りて盡く墨汁と爲んも、佛は大海の中より一一の墨の滴を取りて是は其の世界の是の如きの草木の其の根、其の莖、其の枝、其の條・花・菓・葉等なりと分別し了知したまふ。又如し人有りて一毛端に水の一滴を霑せるを持ちて、佛の所に來至して是の言を作さく。敢て滴水を以て持用て相寄す。後に若し須ひんには、當に還して我に賜ふべし。爾の時如來其の滴水を取りて、兢伽河の中に置きたまふに、彼の河の流浪廻渡の爲に旋轉せられ、和合引注して大海に至る。