同じき『經』(唐譯卷六)の普明智菩薩讃佛の偈に云く。「一切諸法の中には、法門に邊有ること无し。一切智を成就せば、深法海に入る」と。已上 應に是の念願を作すべし。今彌陀は我が三業を照見したまふらん。願はくは世尊の如く惠眼第一淨なることを得んと。 十四には能調伏心なり。『十住論』(卷一〇)に云く。「諸佛は若しは定に入り若しは定に入らずして、心を一縁の中に繋けんと欲せば、意の久近に隨ひて、意く如く能く住したまふ。此の縁の中より、更に餘の縁に住するも、意に隨ひて能く住したまふ。若し佛常の心に住したまふときも人をして知らざらしめんと欲ひたまはば、則ち知ること能はず。假使ひ一切衆生の、他心を知る智をして、大梵王の如くならしめ、大聲聞・辟支佛の如く、智惠を成就して他人の心を知らんとも、佛の常の心を知らんと欲せんに、若し佛聽したまはずば、則ち知ること能はず」と。應に念ずべし、願はくは我をして佛覺三昧を得しめたまへと。 十五には常在安惠なり。同じき『論』(十住毘婆沙論卷一〇)に云く。「諸佛は安穩にして常に念を動かしたまはざれども常に心に在り。何を以ての故に、先に知りて而る後に行生じ、意の所縁の中に隨ひて无礙の行に住したまふが故に。一切の煩惱を斷じたまふが故に。動性を出過したまふが故に。佛阿難に告げたまひしが如し。佛は此の夜に於て阿耨菩提を得て、一切世間の、若しは天・魔・梵・沙門・婆羅門を、盡苦の道を以て敎化したまふこと周く畢りて、无餘涅槃に入りたまふ。其の中間に於て、佛は諸受に於て、起を知り住を知り生を知り滅を知りたまふ、諸相、諸觸、諸覺、諸念にも亦起を知り住を知り生を知り滅を知りたまふ。惡魔七年、晝夜に息まずして、常に佛に隨逐すれども、佛の短を得ず、佛の念の安惠に在らざるを見ざりき」と。『偈』(十住毘婆沙論卷一二)に云く。「其の念大海の如くして、湛然として安穩に在り。世間には法として能く擾乱する者有ること无し」と。應に念ずべし、願はくは佛、我が麁動なる覺觀の心を除滅したまへと。 十六には悲念衆生なり。『大般若經』(卷五六八)に云く。「十方世界には一の有情として如來の大悲の能く照らしたまはざる所无し」と。『寶積經』(卷四〇)に云く。「假使ひ恒河沙等の諸佛の世界を過ぎて、