唯一の衆生をも是佛の化の限ならしめんと。爾の時、如來躬ら其の所に往いて爲に法要を説き、其をして悟入せしめたまふ」と。同じき『經』(寶積經卷三七)の偈に云く。「一衆生を利せんが爲に、无邊劫の海に住して、其をして調伏することを得しめたまふ。大悲心是の如し」と。『華嚴經』(唐譯卷一三)の文殊讃佛の偈に云く。「一一の地獄の中にも无量劫を經ん。衆生を度せんが爲の故に、而も能く是の苦を忍びたまへり」と。『大經』(北本涅槃經卷三八・南本涅槃經卷三四)の偈に云く。「一切衆生の異の苦を受くるを、悉く是如來一人苦みたまふ。乃至 衆生は佛の能く救ひたまふことを知らず。故に如來及び法・僧を謗ず」と。『大論』(卷二六)に云く。「佛は佛眼を以て一日一夜、各々三時に一切衆生を觀はしたまひ、誰か度すべき者あらば時を失はしめたまふこと无し」と。有る『論』(智度論卷七九意)に云く。「譬へば魚子の母若し念ぜざれば子則ち爛壞するが如く、衆生も亦爾なり。佛若し念じたまはずば、善根則ち壞しなん」と。『莊嚴論』(卷六)の偈に云く。「菩薩は衆生を念じて、之を愛すること骨髓に徹り、恒時に利益せんと欲す。猶し一子の如きが故に」と。此等の義に由て、有る懺悔の『偈』に云く。「父母に子有り、始めて生れてより便ち盲聾なれども、慈悲の心慇重にして捨てずして而も養活す。子は父母を見ざれども、父母は常に子を見るが如く、諸佛の衆生を視はすこと、猶し羅睺羅の如し。衆生は見たてまつらずと雖も、實に諸佛の前に在り」と。已上 應に是の念を作すべし。彌陀如來は常に我が身を照らし、我が善根を護念し、我が機縁を觀察したまふ。我若し機縁熟せば、時を失せずして引接を被らんと。 十七には佛無碍辨説なり。『十住論』(卷一一)に云く。「若し三千界の所有四天下の中に滿てらん微塵數の三千大千界の衆生、皆舍利弗の如く、辟支佛の如く、皆悉く智惠樂説を成就して、壽命も上の如く塵數の大劫ならんに、是の諸の人等、四念處に因て其の形壽を盡すまで、如來を問難せば、如來還りて四念處の義を以て、其の所問に答へたまふに、言義重ならず、樂説窮ること無からん」と。又(十住毘婆沙論卷一一)云く。「佛の所説有るは、