皆利益有りて終に空言ならず。是亦希有なり。
乃至 若し一切衆生の智惠勢力、皆辟支佛の如くならんに、是の諸の衆生、若し佛意を承けずして、一人を度せんと欲せば、是の處有ること无し。若し是の諸の人、説かん時は、乃至无色界の結使の一毫
分をも斷ずること能はず。若し佛衆生を度せんと欲して、言説したまふ所有れば、乃至外道・邪見・諸龍・夜叉等、及び餘の佛語を解せざる者にも、皆悉く解せしめ、是等も亦能く无量の衆生を轉化したまふ。
乃至 是の故に佛を最上の導師と名く」と。『偈』
(十住毘婆沙論卷一二)に云く。「問。四問答の中に於て、超絶して倫匹无し。衆生の諸の問難は、一切皆得易し。若し三時の中にして、諸の所説有る者は、言ふこと必ず虚設ならず、常に大果報有り」と。
已上 『華嚴經』
(唐譯卷六)の偈に云く。「諸佛の廣大の音は、法界に聞えざる靡し。菩薩は能く了知して、善く音聲海に入る」と。『淨名經』
(卷上)の偈に云く。「佛は一音を以て法を演説したまふに、衆生は類に隨ひて各々解を得。皆謂へり、世尊は其の語を同じくしたまふと。斯れ則ち神力不共の法なり」と。又『譬喩經』の第三に云く。「阿育王、意に佛を信ぜず。時に海邊に鳥有り、名けて鴹隨と爲す。其の音甚だ哀和にして、頗る髣髴として佛の音聲に似たること有り万分の一なり。王其の音を聞きて歡喜し、即ち无上道の意を發し、宮中の婇女、凡て七千人も、復无上道の意を發しき。王是より遂に三尊を信ぜり。鳥の音聲にして度する所是の如し。況や至眞淸淨の妙音に於てをや」と。
取意略抄 應に念ずべし、我何れの時にか彼の辨説を聞くこと得んと。 十八には觀佛法身なり。文殊師利菩薩の言ふが如し。「我如來を觀たてまつるに、即ち眞如の相なり。動无く作无く、分別する所无く、分別に異なること无し。方處に即くに非ず、方處を離るるに非ず。有に非ず無に非ず、常に非ず斷に非ず、三世に即くに非ず、三世を離るるに非ず。生无く滅无く、去无く來无く、染・不染も无く、二・不二も无し。心・言の路絶えたり。若し此等の眞如の相を以て如來を觀ずるを眞に見佛すと名け、