同じく彌陀を讃ずる『偈』(十住毗婆沙論卷五易行品)に云く。「諸佛無量劫に其の功德を讃揚せんに、猶尚盡すこと能はず。淸淨人を歸命したてまつる」と。應に念ずべし、願はくは我佛を得て正法の王に齊しからんと。 二十には欣求敎文なり。『般舟經』(卷下)に云く。「是の三昧は値ふことを得ること難し。正使ひ是の三昧を求むること、百億劫に至らんに、但其の名聲を聞くことを得んと欲するも、聞くことを得ること能はず。何に況や學ぶことを得ん者をや。轉た復行じて人を敎へんや」と。『偈』(般舟經卷下)に云く。「我自ら往世の時を識念するに、其の數六萬歳を具足するまで常に法師に隨ひて捨離せざりしに、初に是の三昧を聞くことを得ざりき。佛有まして、号して具至誠と曰ふ。時に智の比丘あり、和隣と名く。彼の佛世尊泥洹の後に、比丘常に是の三昧を持てり。我時に王君子の種なりしに、夢の中に是の三昧を聞くに逮び、和隣比丘斯の經を有てり、王當に從ひて此の定意を受くべし。夢より覺め已りて即ち往いて求むるに、輙ち比丘の三昧を持てるを見、即ち髮鬚を除きて沙門と作り、學すること八千歳にして一時に聞けり。其の數八万歳を具足するまで、此の比丘に供養し奉事せり。時に魔の因縁數々興起して、初より未だ曾て一反だも聞くことを得ず。是の故に比丘・比丘尼、及び淸信士・淸信女、是の經法を持てと汝等に囑す。是の三昧を聞かば疾く受行せよ、常に是を習持せる法師を敬ひて、一劫を具足するまで懈ることを得ること無かれ。乃至 假使ひ億千那術劫に、是の三昧を求むとも、聞くことを得ること難し、設令ひ世界の恒沙の如き、中に滿てらん珍寶を用て布施せんも、若し是の一偈の説を受くること有りて、敬誦する功德は彼よりも過ぎん」と。『雙卷經』(大經卷下)に云く。「設ひ大火の三千大千世界に充滿せる有らんも、要ず當に此を過ぎて是の經法を聞き、歡喜信樂し、受持讀誦して、説の如く修行すべし。所以は何ん、多く菩薩有りて、此の經を聞かむと欲すとも、而も得ること能はざればなり。若し衆生有りて、此の經を聞かん者は、无上道に於て終に退轉せず。是の故に當に專心に信じ受持讀誦して説の如く修行すべし」と。已上 應に是の念を作すべし、或は大千の猛火聚を過ぎ、