問。『往生論』に念佛の行法を説きて云く。「三種の菩提門相違の法を遠離すべし。何等か三種。一には智惠門に依て自樂を求めず、我心自身に貪着することを遠離するが故に。二には慈悲門に依て一切衆生の苦を拔く、无安衆生心を遠離するが故に。三には方便門に依て一切衆生を憐愍する、心ありて自身を供養恭敬する心を遠離するが故に。是を三種の菩提門相違の法を遠離すと名く。故に菩薩是の如き三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の隨順菩提門の法滿足することを得るが故に。何等か三なる。一には无染淸淨心、身の爲に諸の樂を求めざるが故に。二には安淸淨心、一切衆生の苦を拔くが故に。三には樂淸淨心、一切衆生をして大菩提を得しむるを以ての故に。衆生を攝取して彼の國土に生ぜしむるを以ての故に。是を三種の隨順菩提門の法滿足すと名く」と。已上 此の中には何が故に彼の論に依らざるや。答。前の四弘の中に此の六法を具足す。文言異なりと雖も、其の義闕くること無し。 問。佛を念ずれば自ら罪を滅す。何ぞ必ずしも堅く戒を持たんや。答。若し一心に念ぜば、誠に責むる所の如し。然れども盡日佛を念ぜんも閑かに其の實を撿すれば、淨心は是一兩にして、其の餘は皆濁亂せり。野鹿は繋ぎ難く、家狗は自ら馴る。何に況や自ら心を恣にせば、其の惡幾許ぞや。是の故に要ず當に精進して淨戒を持つこと、猶明珠を護るが如くすべし。後に悔ゆとも何ぞ及ばん。善く之を思念せよ。 問。誠に言ふ所の如し。善業は是今世の所學なれば、欣ふと雖も動もすれば退き、妄心は是永劫の所習なれば、厭ふと雖も猶起る。既に爾らば何の方便を以てか之を治せん。答。其の治一に非ず。『次第禪門』(卷四)に云ふが如し。「一に沈惛闇塞の障を治せんには、應に佛を觀念すべし。卅二相の中、隨ひて一を取れ。或は先づ眉間の毫相を取り、目を閇ぢて而も觀ぜよ。若し心闇鈍にして懸に成すこと成らずば、當に一の好き嚴かなる形像に對し、一心に相を取り、之を縁じて定に入る。若し明了ならずば、眼を開きて更に觀じ、復更に目を閇ぢよ。