一日より三日に至るまで、合掌して啼泣せよ」と。已上『觀念門』略抄 『大般若』の五百六十八に七日の行を明して云く。「若し善男子・善女人等、心に疑惑无く、七日の中に於て澡浴して淸淨にし、新淨の衣を著け、花香もて供養し、一心に正しく前に説く所の如き如來の功德及び大威神を念ぜば、爾の時に如來は慈悲もて護念し、身を現じて見せしめ願をして滿足ならしめたまふ。若し花香等の事に闕少くること有らば、但一心に功德と威神を念ぜよ。將に命終らんとする時、必ず佛を見たてまつること得ん」と。已上 前に説く所の功德等と言ふは、如來の大慈・大悲・説法・无礙・靜慮、一念に能く无邊の類身を現じ、天眼・天耳・他心智・无失念・无漏離垢・得一切法自在平等等の功德威神となり。『大集賢護經』にも亦七日の行有り、次の利益の中に説くが如し。又迦才の『淨土論』(卷下)に云く。「綽禪師は經文の但能く佛を念ずること一心不亂にして百万遍已去を得たる者は、定んで往生するを得といへるを撿得せり。又綽禪師は小阿彌陀經の七日の念佛に依て百万返を撿得せり。是の故に大集經・藥師經・小阿彌陀經に、皆七日の念佛を勸むるは、此の意明けし」と。已上迦才 言ふ所の七日の行とは、『鼓音聲經』・『平等覺經』に出づ。次の利益門に至りて當に知るべし。言ふ所の九十日の行とは、『止觀』の第二(上)に云く。「常行三昧とは、先づは方法を明かし、次に勸修を明かす。方法とは、身の開遮、口の説嘿、意の止觀なり。此の法は般舟三昧經に出でたり。翻じて佛立と爲す。佛立に三の義あり。一には佛の威力、二には三昧力、三には行者の本功德力なり。能く定の中に於て十方現在の佛其の前に在りて立ちたまふを見たてまつること、明眼の人の淸夜に星を觀るが如し。十方の佛を見たてまつるるも、亦是の如く多し。故に佛立三昧と名く。十住毗婆娑の偈に云く。是の三昧の住處に、少と中と多との差別あり。