要を擧げて之を言はば、歩歩・聲聲・念念、唯阿彌陀佛に在り。意に止觀を論ずとは、西方の阿彌陀佛を念ぜよ。此を去ること十万億の佛刹にして、寶地・寶池・寶樹・寶堂に在まして、衆の菩薩の中央に坐して經を説きたまふ。三月常に佛を念ぜよ。云何が念ずる、三十二相を念ずるなり。足下の千輻輪の相より、一一に逆に縁じて諸相乃至无見頂を念ぜよ。亦應に頂相より順に縁じて、乃至千輻輪までにすべし。我をして亦是の相に逮ばしめたまへと。又念ぜよ、我當に心によりて佛を得んや、身によりて佛を得んや。佛は心を用ても得ず、心身を用ひても得ず。心を用ても佛の色を得ず、色を用ても佛の心を得ず。何を以ての故に、心といはば佛には心も无く、色といはば、佛には色も无し。故に色心を用ては三菩提を得ず。佛は色已に盡き、乃至識も已に盡きたまへり。佛の所説の盡くるをば、是癡人は知らず。智者は曉了す。身口を用ても佛を得ず、智惠を用ても佛を得ず。何を以ての故に、智慧は索むるに得べからず、自ら我を索むるに了に得べからず。亦所見も无し。一切の法は本より所有无く、本を壞し本を絶せり。其一 夢に七寶を見て親屬歡樂するも覺め已りて追念するに何れの處に在るといふことを知らざるが如し。是の如く佛を念ぜよ。又舍衞に女有り、須門と名くと、之を聞きて心に喜び、夜夢に事に從ひ、覺め已りて此を念ふに、彼も來らず我も往かざるに、而も樂しむ事宛然たるが如し。當に是の如く佛を念ずべし。人の大きなる澤を行くに、飢渇して夢に美食を得、覺め已りて腹空しきが如し。自ら一切の所有法を念ふに、皆夢の如し。當に是の如く佛を念ずべし。數數念じて休息することを得ること莫れ。是の念を用て、當に阿彌陀佛の國に生るべし。是を如想念と名く。人の寶を以て琉璃の上に倚するに、影其の中に現ずるが如し。亦比丘の骨を觀ずるに、骨より種種の光を起すが如し。此れ持ち來れる者も无く、亦是の骨有ることも无し。是意の作せるのみ。鏡の中の像は外より來らず、中よりも生ぜざるも、鏡の淨きを以ての故に、自ら其の形を見るが如し。行人の色淸淨なれば、所有者淸淨なり。佛を見んと欲すれば即ち佛を見る。見れば即ち問ひ、問へば即ち報へたまふ。