經を聞きて大いに歡喜す。其二 自ら念ふ、佛は何れの所よりか來る、我も亦至る所无し。我が所念もて即ち見るなり。心佛と作り、心自ら心を見、佛の心をも見るなり。是の佛の心は是我が心に佛を見るなり。心は自ら心を知らず、心は自ら心を見ず。心に想有るを癡と爲し、心に相无きは是泥洹なり。是の法は示すべき者无し。皆念の所爲なり。設ひ念有りとも、亦无所有の念の空と了るのみ。其三 偈に云く。心は心を知らず、心有りて心を見ず。心に想を起せば即ち癡なり、想无きは即ち泥洹なり。諸佛は心によりて解脱を得たまへり。心は垢无ければ淸淨と名く。五道は鮮潔にして色を受けず。此を解ること有る者は大道を成ずと。是を佛印と名く。所貪无く所着无く、所求无く所想无し、所有盡き、所欲盡く。從りて生ずる所无く、滅すべき所无く、壞敗する所无し。道の要、道の本なり。是の印は二乘すら壞すること能はず、何に況や魔をや。云云 婆娑に明さく。新發意の菩薩は、先づ佛の色相、相の體、相の業、相の果、相の用を念じて、下の勢力を得、次に佛の四十の不共法を念じて、心に中の勢力を得、次に實相の佛を念じて、上の勢力を得、而して色法の二身に著せずと。偈に云く。色身に貪著せず、法身にも亦著せず。善く一切の法は永寂なること虚空の如しと知ると。勸修とは、若し又智慧は大海の如くにして、能く我が爲に師と作る者无からしめ、此に於て坐して神通を運ばずして悉く諸佛を見、悉く所説を聞き、悉く能く受持することを得んと欲はば、常に三昧を行ぜよ。諸の功德に於て最も第一なりと爲す。此の三昧は是諸佛の母、佛の眼、佛の父、无生大悲の母なり。一切の諸の如來は、是の二法より生ず。大千の地及び草木を碎きて塵と爲し、一塵を一佛刹と爲し、爾の世界の中に滿てらん寶を用て布施せば、其の福甚だ多からんも、此の三昧を聞きて驚かず畏れざらんには如かず。況や信じて受持し讀誦して人の爲に説かんをや。況や定心に修習すること牛乳を搆る頃の如くせんをや。況や能く是の三昧を成ぜんをや。故に无量无邊なり。婆娑に云く。劫火・官・賊・怨・毒・龍・獸・衆病、