是の人を侵すといはば、是の處有ること无けん。此の人は常に天・龍八部、諸佛に、皆共に護念し稱讃爲られ、皆共に見んと欲して共に其の所に來る」と。若し此の三昧を聞かば、上の四番の功德の如し、皆隨喜すること、三世の諸佛・菩薩の皆隨喜したまふがごとくせんに、復上の四番の功德に勝れり。若し是の如きの法を修せずば、无量の重寶を失はん。人・天之が爲に憂悲す。鼻の人は栴檀を把れども嗅がざるが如く、田家の子は摩尼珠を以て一頭の牛に博へんが如し」と。云。四番の功德は『弘決』に云く、又四番の果報有り。一には驚せず、二には信受、三には定心修、四には能成就
[六、別時念佛 臨終行儀]
第二に臨終の行儀とは、先づ行事を明し、次に勸念を明す。 初に行事とは、『四分律抄』(卷下四)の瞻病送終の篇に『中國本傳』を引きて云く。「祇洹の西北の角、日光の沒する處に无常院を爲れり。若し病者有らば、安置して中に在く。凡そ貪染を生ずるものは、本房の内の衣盋衆具を見て、多く戀着を生じ、心厭背无きを以ての故に、制して別處に至らしむるなり。堂を无常と号く。來る者は極めて多く、還反るものは一二なり。事に即きて而も求め、專心に法を念ず。其の堂の中に一の立像を置けり。金薄もて之に塗り面を西方に向けたり。其の像の右の手は擧げ、左の手の中には一の五綵の幡の脚を垂れて地に曳けるを繋ぐ。當に病者を安んぜんとして像の後に在き、左の手に幡の脚を執り、佛に從ひて佛の淨刹に往く意を作さしむ。瞻病の者香を燒き花を散して病者を莊嚴す。乃至若し屎尿・吐唾有らば、有るに隨ひて之を除く」と。或は説く(法苑珠林卷九五意)。「佛像を東に向け、病者を前に在く」と。私に云く。若し別處无くば但病者をして面を西に向かしめ、香を燒き華を散じて、種種に勸進せよ。或は端嚴の佛像を見せしむべし 導和尚(觀念法門)の云く。「行者等、若しは病み病まざらんも、命終らんと欲する時は、一ら上の念佛三昧の法に依て、正しく身心に當てて、面を廻らして西に向け、心も亦專注して阿彌陀佛を觀想し心口相應して聲聲絶ゆること莫く、決定して往生の想、花臺の聖衆來りて迎接するの想を作せ。病人、若し前境を見ば、則ち看病の人に向ひて説け。既に説くを聞き已らば、即ち説に依て録記せよ。又病人、若し語ること能はずば、