看病のもの必ず須く數數病人に問ふべし。何なる境界をか見たると。若し罪相を説かば、傍の人即ち爲に念佛して、助けて同じく懺悔して、必ず罪を滅せしめよ。若し罪を滅することを得、華臺の聖衆念に應じて現前すれば、前に准じて抄記せよ。又行者等の眷屬・六親、若し來りて看病せば、酒・肉・五辛を食せる人を有らしむること勿れ。若し有らば必ず病人の邊に向ふことを得ざれ。即ち正念を失ひ、鬼神交亂し、病人狂死して三惡道に墮せん。願はくは行者等、好く自ら謹愼して佛敎を奉持し、同じく見佛の因縁を作せ」と。已上 往生の想、迎接の想を作すこと、其の理然るべし。『大論』(觀四〇)に神變の作意を説きて云ふが如し。「地の想を取ること多きが故に、水を履むこと地の如し。水の想を取ること多きが故に、地に入ること水の如し。火の想を取ること多きが故に、身より烟火等を出す」と。云云 明かに知んぬ、所求の事に於て彼の相を取る時、能く其の事を助けて、而して成就することを得といふことを。唯臨終のみに非ず、尋常も之に准ず。綽和尚(安樂集卷上)の云く。「十念相續することは難からざるに似若たり。然れども諸の凡夫は、心は野馬の如く、識は猨猴よりも劇し、六塵に馳騁して、何ぞ曾て停息せん。各々須く宜しく信心を致し、預して自ら剋念し、積習をして性を成じ善根をして堅固ならしむべし。佛大王に告げたまふが如し。人善行を積まば、死するとき惡念无し。樹の先より傾けるが倒るるとき必ず曲れるに隨ふが如しと。若し刀風一び至らば百苦身に奏まる、若し習先より在らずば懷念何ぞ辨ずべけん。各々宜しく同志三五と預して言要を結び、命終の時に臨みて、迭相に開曉して爲に彌陀の名号を稱し、極樂に生ぜんと願じ、聲聲相次で十念を成ぜしむ」。已上 言ふ所の十念には多釋有りと雖も、然れども一心にして十遍南无阿彌陀佛と稱念する、之を十念と謂ふ。此の義經の文に順ぜり。餘は下の料簡の如し。 次に臨終の勸念とは、善友・同行にして其の志有らん者は、佛敎に順ぜんが爲に、衆生を利せんが爲に、善根の爲に、結縁の爲に、患に染む初より病の床に來問して、幸に勸進を垂れよ。但し勸誘の趣は、應に人の意に在るべし。今且く自身の爲に其の詞を結びて云く。佛子年來の間、