大定智悲の流出する所なり。須臾の間も此の相を憶へば、能く九十六億那由他恒河沙微塵數劫の生死の重罪を滅す。是の故に今當に彼の相を憶念して、決定して罪業を滅除すべし。應に此の念を作すべし。願はくは白毫の相光我が諸の罪を滅したまへ。南无阿彌陀佛 八には彼の白毫相の、若干の光明は、常に十方世界の念佛の衆生を照らして、攝取して捨てたまはず。當に知るべし、大悲の光明は、決定して來り照らしたまふことを。『華嚴』(晋譯卷七)の偈に云ふが如し。「又光明を放つを見佛と名く。彼の光は命終の者を覺悟せしめたまひ、念佛三昧は必ず佛を見たてまつり、命終の後佛前に生ず」と。故に今應に是の念を作すべし。願はくは彌陀佛、淸淨の光を放ちて、遙に我が心を照らし、我が心を覺悟して境界・自躰・當生の三種の愛を轉じて、念佛三昧成就して極樂に往生することを得しめたまへ。南无阿彌陀佛 九には彌陀如來は唯光を以て遙に照らしたまふのみに非ず、自ら觀音・勢至と與に常に來りて行者を擁護したまふ。何に況や父母は病子に於ては、其の心偏に重し。法性の山を動かして、生死の海に入りたまふ。當に知るべし、是の時に佛は大光明を放ちて、諸の聖衆と倶に來りて引接し擁護したまふなり。惑障相隔て、見たてまつること能はずと雖も、大悲の願疑ふべからず、決定して此の室に來入したまふなり。故に佛子應に是の念を作すべし。願はくは佛大光明を放ちて、決定して來迎して極樂に往生せしめたまへ。南无阿彌陀佛 若し病者の氣力漸漸く羸劣ならん時には、應に云ふべし、佛、觀音・勢至、无量の聖衆と倶に來りて、寶蓮臺を擎げて佛子を引接したまふと。以上第七・八・九條の事、常に應に勸誘すべし。其の餘の條の事、時時之を用ひよ 十には正しく終に臨まん時に應に云ふべし、佛子知るや不や、唯今は即ち是最後の心なり。臨終の一念は百年の業に勝るといふ、若し此の刹那を過ぎなば、生處應に一定すべし、今正しく是其の時なり、當に一心に佛を念じて決定して西方極樂微妙淨土の八功德の池の中、七寶の蓮臺の上に往生すべし。應に是の念を作すべし、如來の本誓は一毫も謬无し、願はくは佛決定して我を引攝したまへ。南无阿彌陀佛