是の善男子・善女人等は、生死の際を窮むるまで善根盡くること无く、天人の中に於て恒に富樂を受け、乃至最後には般涅槃を得ん」と。略抄。『大悲經』の第二も之に同じ 『寶積經』(卷三七)に云く。「衆生有りて、如來の所に於て微善だにも起さば、苦際を盡すまで、畢竟じて壞せず」と。又(寶積經卷六)云く。「若し菩薩有りて、勝意樂を以て能く我が所に於て父の想を起さば、彼の人當に如來の數に入ることを得て我の如くにして異なること无かるべし」と。『十二佛名經』の偈に云く。「若し人佛名を持たば、世世生るる所處、身通もて虚空に遊び、能く无邊の刹に至る。面り諸佛を覩たてまつりて、能く甚深の義を問ひたてまつらば、乃至 爲に微妙の法を説きて、彼に菩提の記を授く」と。『法華經』(卷一)の偈に云く。「若し人散亂の心もて、塔廟の中に入り、一び南无佛と稱せば、皆已に佛道を成ず」と。『大悲經』の第三に「佛阿難に告げたまはく。若し衆生有りて、佛の名を聞かん者は、我説く、是の人は畢定して當に般涅槃に入ることを得べし」と。『華嚴經』(唐譯卷二三)の法幢菩薩の偈に云く。「若し諸の衆生有りて、未だ菩提心を發さず、一び佛の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん」と。已上、諸の文、菩提を得ること 但名號を聞くすら勝利是の如し。況や暫くも相好・功德を觀念し、或は復一華・一香を供養せんをや。況や一生勤修せん功德は終に虚しからず。則ち知んぬ、佛法に値ひ佛號を聞くことは、是少縁に非ず。是の故に『華嚴經』(唐譯卷一六)の眞實慧菩薩の偈に云く。「寧ろ地獄の苦を受くるとも諸佛の名を聞くことを得よ、无量の樂を受くるとも佛の名を聞かざることなかれ」と。已上の四門は、總じて諸佛を念ずる利益を明す。其の中に『觀佛經』は釋迦を以て首と爲し、『般舟經』は多く彌陀を以て首と爲れども、理實には倶に一切の諸佛に通ず。『念佛經』は三世の佛に通ず。 問。『觀佛經』(卷一)に云く。「是の人の心は佛の心の如し、佛と異なること无し」と。又『觀經』に云く。「佛阿難に告げたまはく。諸佛如來は是法界身なり、一切衆生の心想の中に入る。是の故に汝等心に佛を想ふ時、