是の心即ち是三十二相・八十隨形好なり。是の心作佛す。是の心是佛なり。諸佛正遍知海は、心想より生ず」と。已上 此の義云何。答。『往生論』の智光の『疏』に此の文を釋して云く。(論註卷上同文)「當に衆生の心に佛を想ふ時、佛の身相皆衆生の心中に顯現す。譬へば水淸ければ即ち色像現じて、水と像と一ならず異ならざるが如し。故に佛の相好の身、即ち是心想と言へるなり。是心作佛といふは、心能く作佛すといふなり。是心是佛といふは、心の外に佛无ましまさざるなり。譬へば火は木より出でて木を離るることを得ず、木を離れざるを以ての故に即ち能く木を燒きて火と爲る、木を燒けば即ち是火たるが如し」と。已上 亦餘の釋有り、學者更に勘へよ。私に云く。『大集經』(卷三八意)の日藏分に云く。「行者是の念を作さく。是等の諸佛は、從來する所无く、去るに至る所无し。唯我が心の作なるのみ。三界の中に於て、是の身の因縁なり、唯是の心の作なり。我覺觀に隨ひて、多を欲すれば多を見、小を欲すれば小を見る。諸佛如來は即ち是我が心なり。何を以ての故に、心に隨ひて見るが故なり。心即ち我が身にして、即ち是虚空なり。我覺觀に因て无量の佛を見たてまつる、我覺て心を以て佛を見佛を知るなり。心は心を見ず、心は心を知らず。我法界を觀ずるに性牢固たること无し。一切の諸佛は皆覺觀の因縁より生ず。是の故に法性は即ち是虚空にして虚空の性も亦復是空なり」と。已上 此の文の意は『觀經』に同じ。光師の釋も亦違ふこと无し。 問。心の佛と作ることを知らば、何の勝利か有るや。答。若し此の理を觀ずれば、能く三世の一切の佛法を了る。乃至一びも聞かば即ち三途の苦難を解脱することを得。『華嚴經』(晋譯卷一〇)の如來林菩薩の偈に云ふが如し。「若し人三世の一切の佛を知らんと欲求せば、當に是の如く觀ずべし。心に諸の如來を造る」と。『華嚴傳』(卷四)に曰く。「文明元年に、京師の人、姓は王、其の名を失せり。既に戒行无く、曾て善を修せず、患に因て死に致る。二人に引かれて地獄の門前に至る。見れば一の僧有り。是地藏菩薩なりと云ふ。