『稱讃淨土經』には「十大劫」と云へり。邪正知り難し。但『雙卷經』の憬興師の『疏』(述文賛卷中)に、『平等經』を會して云く。「十八劫とは、其れ小の字の其の中の點を闕けるならん」と。 問。未來の壽は幾何ぞや。答。『小經』に云く。「无量无邊阿僧祇劫なり」と。『觀音授記經』(意)に云く。「阿彌陀佛の壽命は无量百千億劫にして、當に終極有るべし。佛涅槃の後、正法世に住せんこと佛の壽命に等しからん。善男子、阿彌陀佛の正法滅して後、中夜分を過ぎて明相の出づる時、觀世音菩薩、菩提樹の下に於て、等正覺を成じて、普光功德山王如來と号けん。其の佛の國土には、聲聞・縁覺の名有ること无し。其の佛の國土をば、衆寶普集莊嚴と号くべし。普光功德如來涅槃したまひ、正法滅して後、大勢至菩薩、即ち其の國にして成佛し、善住功德寶王如來と号けん。國土・光明・壽命、乃至法、住すること等しくして異有ること无けん」と。 問。『同性經』(卷下)には「報身」と云ひ、『授記經』には「入滅」と云ふ。二經の相違、諸師何んが會するや。答。綽禪師(安樂集卷上)『授記經』を會して云く。「此は是報身の隱沒の相を現ずるなり、滅度には非ざるなり」と。迦才(淨土論卷上)『同性經』を會して云く。「淨土中の成佛を、判じて報と爲すは、是受用の事身なり。實の報身には非ざるなり」と。 問。何れをか正と爲るや。答。迦才(淨土論卷上)云く。「衆生の起行に既に千殊有れば、往生の土を見るにも亦万別有るなり。若し此の解を作さば、諸の經論の中に、或は判じて報と爲し、或は判じて化と爲す、皆妨難无きなり。但諸佛の修行は、具に報化の二土を感ずることを知るべし。攝論に加行は化を感じ、正体は報を感ずといふが如し。若しは報若しは化、皆衆生を成就せんと欲するなり。此れ則ち土は虚しく設けず、行は空しく修せず、但佛語を信じて、經に依て念を專にせば、即ち往生することを得。亦須く報と化とを圖度すべからず。」と已上 此の釋善し。須く專ら稱念すべし、勞はしく分別すること勿れ。