應に須彌山の如き長大の人、一毛端を以て其の指節と爲んに似たるべし。故に知んぬ、佛の指の量を以て佛身の長短を説かざることを。何ぞ必ずしも淨土の時剋を以て、華開の遲速を説かんや。二には『尊勝陀羅尼經』に説くが如し。「忉利天上の善住天子、空の聲の告ぐるを聞くに、汝當に七日にして死すべしと。時に天帝釋、佛の敎敕を承けて彼の天子をして七日勤修せしむるに、七日を過ぎて後、壽命延ぶることを得たり」と。取意 此は是人中の日夜もて而も説けるなり。若し天上の七日に據らば、人中の七百歳に當り、佛世の八十年の中に其の事を決了すべからず。九品の日夜も亦應に之に同じかるべし。三には法護所譯の經に云く。「胎生の人五百歳を過ぎて佛を見たてまつることを得」と。『平等覺經』(卷三)に云く。「蓮華の中より化生して城の中に在り。是の間の五百歳に於て、出づることを得ること能はず」と。取意 憬興等の師は、此の文を以て此の方の五百歳なりと證せり。今云く。彼の胎生の歳數、既に此の間に依て説けりとせば、九品の時剋、何の別義有りてか彼に同ぜざらんや。四には若し彼の界に據て九品を説けりとせば、上品中生の一宿、上品下生の一日夜は、即ち此の界の半劫と一劫とに當れり。若し爾りと許さば、胎生の疑心の者、尚娑婆の五百歳を逕て、而も速に佛を見たてまつるを得るに、上品の信行者、豈半劫・一劫を過ぎて、而も遲く蓮華を開かんや。此の理有るが故に、後の釋は失无し。 問。若し此の界の日夜の時剋を以て、彼の相を説けりとせば、彼の上上品に、彼の國に生れ已りて、應に即ちに无生法忍を悟るべからず。然る所以は、此の界の少時の修行を勝と爲し、彼の國の多時の善根を劣と爲す。既に爾らば上上品の人、此の世界に於て一日より七日に至るまで三福業を具足して、尚无生法忍を證すること能はざるに、云何ぞ彼に生じて法を聞きて即ちに悟らん。故に知んぬ、彼の國土の長遠の時剋を經て、无生忍を悟るといふことを。然れば彼に約して即悟と名くるも、此に望むれば即ち億千歳なり。或は可し、上上の人は必ず是方便後心の圓滿せる者なりと。