倶に淨土に生ず。逆を造れる人は必ず須く十を滿すべし、一も闕くも生ぜず。故に除と言ふ」と已上 今試みに加釋せんに、餘處には遍く往生の種類を顯すも、本願には唯定生の人のみを擧ぐ。故に「爾らずば正覺を取らじ」と云へり。餘人の十念は定んで往生することを得、逆者の一念は定んで生ずること能はず。逆の十と餘の一とは皆是不定なり。故に願には唯餘人の十念を擧げ、餘處には兼ねて逆の十と餘の一とを取れり。此の義未だ決せず、別して思擇すべし。 問。逆者の十念は何が故ぞ不定なる。答。宿善の有无に由て念力別なるが故に。又臨終と尋常と念ずる時別なるが故に。 問。五逆は是順生の業なり、報と時と倶に定れり。云何ぞ滅することを得ん。答。感師(群疑論卷五)之を釋して云く。「九部の不了敎の中に、諸の業果を信ぜざる凡夫の爲に、密意もて説きて定報の業有りと言ふ。諸の大乘の了義敎の中に一切の業は悉く皆不定なりと説く。涅槃經の第十八の卷に云ふが如し。耆婆阿闍世王の爲に懺悔の法を説きて、罪滅することを得と。又云く。臣佛の説を聞くに、一の善心を修せば、百種の惡を破すと。小しき毒藥の能く衆生を害するが如し。小善も亦爾なり。能く大惡を破すと。又卅一に云く。善男子、諸の衆生有りて、業縁の中に於て、心輕んじて信ぜざらん。彼を度せんが爲の故に、是の如きの説を作す。善男子、一切の作業に、輕有り重有り。輕重の二業に、復各々二有り。一には決定、二には不決定なりと。又言く。或は重業の輕と作し得べきこと有り、或は輕業の重と作し得べきこと有り。有智の人は、智惠の力を以て、能く地獄極重の業をして現世に輕く受せしむるも、愚癡の人は、現世の輕き業を地獄に重く受くと。阿闍世王は、罪を懺悔し已りて、地獄に入らず。鴦掘摩羅は、阿羅漢を得たり。瑜伽論に説かく。解脱を得ざるを、説きて決定業と名け、已に解脱を得たるを不定業と名くと。是の如き等の諸の大乘の經論に、五逆罪等を説きて、皆不定と名け、悉く消滅することを得」と。轉重輕受の相は具に『放鉢經』に出でたり 問。所引の文に云く。智者は重を轉じて輕く受くと。