下品生の人は、但十念已りて、即ち淨土に生ず。何れの處にか輕く受くるや。答。『雙卷經』(大經卷下)に彼の土の胎生の者を説きて云く。「五百歳の中、三寶を見たてまつらず、諸の善本を供養し修することを得ず、而も此を以て苦と爲す。餘の樂有りと雖も、猶彼の處を樂はず」と。已上 之に准ずるに應に知るべし、七七日・六劫・十二劫、佛を見たてまつらず法を聞かざる等を以て輕く苦を受くと爲すのみ。 問。爲如し臨終に一び佛の名を念じて、能く八十億劫の衆罪を滅すとせば、尋常の行者も亦然るべきや。答。臨終の心は力は強ければ能く无量の罪を滅す、尋常名を稱するは彼が如くなるべからず。然れども若し觀念成ずれば亦无量の罪を滅す。若し但名を稱するのみなれば、心の淺深に隨ひて其の利益を得ること、應に差別有るべし。具には前の利益門の如し。 問。何を以てか淺心に佛を念ずるも亦利益有りといふことを知ることを得るや。答。『首楞嚴三昧經』(卷上)に云く。「大藥王を名けて滅除と曰ふ。若し鬪戰の時に以用て鼓に塗るに、諸の箭に射られ、刀矛に傷られたらんも、鼓の聲を聞くことを得ば、箭出でて毒除こるが如し。是の如く菩薩の首楞嚴三昧に住せる時、名を聞くこと有る者は、貪・恚・癡の箭自然に拔出し、諸の邪見の毒、皆悉く除滅し、一切の煩惱、復動發せず」と。已上、諸法の眞如實相を觀見し、凡夫の法と佛の法と不二なりと見る。是を首楞嚴三昧を修習すと名く 菩薩既に爾なり、何に況や佛をや。名を聞くこと既に爾なり、何に況や念ぜんをや。應に知るべし、淺心に念ずとも利益亦虚しからざるを。
[一〇、問答料簡 麁心妙果]
第六に麁心の妙果とは、 問。若し菩提の爲に佛に於て善を作さば、妙果を證得すること理必ず然るべし。若し人天の果の爲に善根を修せば云何。答。或は染にあれ或は淨にあれ、佛に於て善を修せば、遠近有りと雖も、必ず涅槃に至る。故に『大悲經』の第三に、佛阿難に告げて言はく。「若し衆生有りて、生死三有の愛果に樂着して、佛の福田に於て善根を種ゑたらん者、是の如きの言を作さん。此の善根を以て、願はくは我般涅槃すること莫けんと。阿難、是の人若し涅槃せずといはば、是の處有ること无けん。阿難、是の人涅槃を樂求せずと雖も、