然も佛所に於て諸の善根を種ゑたれば、我説く、是の人は必ず涅槃を得」と。 問。所作の業は願に隨ひて果を感ず、何ぞ世の報を樂ひて、出世の果を得るや。答。業果の理、必ずしも一同ならず。諸の善業を以て佛道に廻向するは、是即ち作業なれば、心に隨ひて轉ず。雞狗の業を以て天の樂を樂求するは、是即ち惡見なれば、業をして轉ぜしめず。是の故に佛に於て諸の善業を修せば、意樂異なりと雖も、必ず涅槃に至る。故に彼の『經』(大悲經卷三)に譬を擧げて言く。「譬へば長者の時に依て種を良田の中に下し、時に隨ひて漑灌して、常に善く護持せんに、若し是の長者、餘の時の中に於て彼の田所に到りて、是の如きの言を作さん。拙哉種子、汝種と作ること莫れ、生長すること莫れと。然れども彼種を種ゑつれば、必ず應に果を作り、果實无きには非ざるが如し」と。取意略抄  問。彼何れの時に於て、般涅槃を得るや。答。設ひ久久に生死に輪廻すと雖も、善根亡びずして、必ず般涅槃を得。故に彼の『經』(大悲經卷三)に云く。「佛阿難に告げたまはく。捕魚師魚を得んが爲の故に、大なる池水に在りて、鉤餌を安置して、魚をして呑み食はしめんに、魚呑食し已らば、池の中に在りと雖も、久しからずして當に出づべきが如し。乃至 阿難、一切の衆生、諸佛の所に於て敬信を生ずることを得、諸の善根を種ゑ、布施を修行し乃至發心して一念の信をも得ば、復餘の惡不善業の爲に覆障せられて、地獄・畜生・餓鬼に墮在すと雖も、乃至 諸佛世尊は、佛眼を以て此の衆生を觀見したまふに、發心勝れたるが故に、地獄より之を拔きて出さしめたまふ。既に拔き出し已りぬれば、涅槃の岸に置きたまふ」と。 問。是經の意の如くんば、敬信を以ての故に遂に涅槃を得。若し爾らば但一び聞かんは涅槃の因に非ざるべし。既に爾らば云何ぞ『華嚴』の偈(唐譯卷二三)に「若し諸の衆生有りて、未だ菩提心を發さず、一び佛の名聞を得ば、決定して菩提を成ぜん」と。云へるや。答。諸法の因縁は不可思議なり。譬へば孔雀の雷震の聲を聞きて、即ち身有ることを得、又尸利沙果の先には形質无かりしに、昴星を見る時、果則ち出生して長さ五寸に足るが如し。佛の名号に依て即ち佛因を結ぶことも、亦復是の如し。