若し住禪の者を毀謗すること有らば、其の罪甚だ多くして、彼よりも過ぎたり。若し住禪の者に、飮食・衣服及び湯藥を供養すること有らんに、是の人は无量の罪を消滅して、亦三惡道に墮せず。是の故に我今普く汝に告ぐ、佛道成ぜんと欲はば、常に禪に在れ、若し阿蘭若に住すること能はずば、當に彼の人を供養すべし」と。
已上 汎爾の禪定すら尚既に是の如し、況や念佛三昧は、是王三昧なるをや。 問。若し禪定の業は、讀誦・解義等よりも勝れたらば、云何ぞ『法華經』の分別功德品に、八十萬億那由他劫に修する所の前の五波羅密の功德を以て、『法華經』を聞きて一念信解する功德に挍量して、百千萬億分の一分なりとする。何に況や廣く他の爲に説かんをや。答。此等の諸行に、各々淺深有り。謂く偏圓の敎に差別有るが故なり。若し當の敎にて論ずれば勝劣前の如し。若し諸敎に相對すれば、偏敎の禪定は圓敎の讀誦事業には及ばず。『大集』・『寶積』は一敎に約して論じ、『法華』の
量は偏圓相望す。是の故に諸の文義相違せざるなり。念佛三昧も亦復是の如し。偏敎の三昧は當敎に勝れたりと爲し、圓人の三昧は普く諸行に勝れたり。又定に二有り。一には惠相應の定、是を最勝と爲す。二は暗禪、未だ勝と爲すべからず。念佛三昧は應に是初の攝なるべし。
[一〇、問答料簡 信毀因縁]
第八に信毀の因縁とは、『般舟經』
(卷上)に云く。「獨り一佛の所に於て功德を作すにもあらず、若しは二若しは三若しは十に於てのみせるにもあらず。悉く百佛の所に於て是の三昧を聞き、却後の世の時にも是の三昧を聞く者なり。經卷を書學し誦持して、最後に守ること一日一夜すれば、其の福計るべからず。自ら阿惟越致に致り、願ふ所の者を得ん」と。 問。若し爾らば、聞く者は決定して應に信ずべし、何が故ぞ聞くと雖も信ずると信ぜざると有りや。答。『无量淸淨覺經』
(卷四)に云く。「善男子・善女人ありて、無量淸淨佛の名を聞きて、歡喜し踊躍して身の毛爲に起つこと、