拔けき出づるが如くする者は、皆悉く宿世の宿命に、已に佛事を作せるものなり。其れ人民有りて疑ひて信ぜざる者は、皆惡道の中より來りて、殃惡未だ盡きず。此れ未だ解脱を得ざるなり」と。略抄 又『大集經』の第七(卷六)に云く。「若し衆生有りて、已に无量无邊の佛の所に於て、衆の德本を殖ゑたるもの、乃し是の如來の十力・四无所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得。乃至 下劣の人は是の如き正法を聞くことを得ること能はず。假使ひ聞くことを得るも、未だ必ずしも能く信ぜず」と。已上 當に知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄德にして聞くことを得るも、其の縁を知ること難し。烏豆聚に一綠豆有るが如し。但彼聞くと雖も、而も信解せざるは、是薄德の致す所なるのみ。 問。佛往昔に於て具に諸度を修せしに、尚八萬歳に於て此の法を聞くこと能はざりき、云何ぞ薄德にして輙く聽聞することを得ん。設ひ希有なりと許すとも、猶道理に違せり。答。此の義知り難し。試みに之を案じて云く。衆生の善惡に四位の別有り。一には惡用偏增。此の位には法を聞くこと无し。『法華』(卷六意)に云ふが如し。「增上慢の人は、二百億劫常に法を聞かず」と。二には善用偏增。此の位には、常に法を聞く。地・住以上の大菩薩等の如きなり。三には善惡交際。謂く凡を捨てて聖に入るに垂とする時なり。此の位の中には一類の人有りて、法を聞くこと甚だ難し。適々聞けば即ち悟る。常啼菩薩、須達の老女等の如きなり。或は魔の爲に障へられ、或は自の惑の爲に障へられて、聞見することを隔てたりと雖も、久しからずして即ち悟る。四には善惡容預。此の位には、善惡は同じく是生死流轉の法なるが故に、多く法を聞くこと難し。惡增せるに非ざるが故に、一向に无聞なるに非ず。交際するに非ざるが故に、聞くと雖も巨益无し。六趣四生に蠢蠢たる類是なり。故に上人の中にも亦聞くこと難きもの有り、凡愚の中にも亦聞く者有り。此れ未だ決せず、後の賢人取捨せよ。 問。不信の者は、何なる罪報をか得るや。答。『稱揚諸佛功德經』下卷に云く。「其れ阿彌陀佛の名号の功德を讃嘆し稱揚するを信ぜずして謗毀すること有らん者は、