置きて呵嘖し驅遣し擧處せずば、當に知るべし、是の人は佛法の中の怨なり。若し能く驅遣し呵嘖し擧處せんは、是我が弟子なり、眞の聲聞なり。乃至 諸の國王、及び四部の衆は、當に諸の學人等を勸勵して增上の戒・定・智慧を得しむべし。若し是の三品の法を學せずして、懈怠破戒にして正法を毀つ者有らば、王者・大臣・四部の衆、當に苦治すべし」と。又(北本涅槃經卷三・南本涅槃經卷三)云く。「若し比丘有りて、禁戒を持つと雖も、利養の爲の故に、破戒の者と、坐起行來し、共に相親附し、其の業を同じくせば、是を破戒と名く。乃至 若し比丘有りて、阿蘭若處に在りて、諸根利ならず闇鈍〓瞢して少欲に乞食し、説戒の日及び自恣の時に於て、諸の弟子を敎へて淸淨に懺悔せしめ、非なる弟子の多く禁戒を犯せるを見て、敎へて淸淨に懺悔せしむること能はず、而も便ち與共に説戒し自恣する、是を愚癡僧と名く」と。已上略抄 明らかに知んぬ、若しは過ぎ若しは及ばざる、皆是佛勑に違せり。其の間の消息都て意を得るに在り。
[一〇、問答料簡 助道人法]
第十に助道人法とは、略して三有り。一には明師の内外の律に善くして、能く妨障を開除するを須ひて、恭敬し承習せよ。故に『大論』(卷四九)に云く。「雨の墮つるに山の頂に住らずして、必ず下き處に歸するが如し。若し人憍心もて自ら高くすれば、則ち法水入らず。若し善き師を恭敬すれば功德之に歸す」と。二には同行の共に嶮を渉るが如くせんを須ひよ、乃至臨終まで互に相勸勵せよ。故に『法華』(卷七)に云く。「善知識は是大因縁なり」と。又(付法藏因縁傳卷六意)「阿難言く。善知識は是半因縁なりと。佛言はく。爾らず。是全因縁なり」と。三には念佛相應の敎文に於て、常に應に受持し披讀し習學すべし。故に『般舟經』の偈(卷二)に云く。「此の三昧經は眞の佛語なり。設ひ遠方にも是の經有りと聞かば、道法を用ての故に往いて聽受し、一心に諷誦して忘捨せざれ。假使ひ往き求めて聞くことを得ざらんも、其の功德の福は盡くべからず、