正助二行を修するは、阿彌陀佛に於て以て親眤爲り。故に『疏』の上の文(定善義)に云く。「衆生起行して、口に常に佛を稱すれば、佛即ち之を聞きたまふ。身に常に佛を禮敬すれば、佛即ち之を見たまふ。心に常に佛を念ずれば、佛即ち之を知りたまふ。衆生佛を憶念すれば、佛亦衆生を憶念したまふ。彼此の三業相捨離せず、故に親縁と名くるなり」と。次に疎とは雜行なり。衆生口に佛を稱せざれば、佛即ち之を聞こしめさず。身に佛を禮せざれば、佛即ち之を見そなはさず。心に佛を念ぜざれば、佛即ち之を知ろしめさず。衆生佛を憶念せざれば、佛衆生を憶念したまはず。彼此の三業、常に相捨離す。故に疎行と名くるなり。 第二に近遠對といふは、先づ近とは、正助二行を修するは、阿彌陀佛に於て甚だ以て鄰近爲り。故に『疏』の上の文(定善義)に云く。「衆生佛を見たてまつらんと願ずれば、佛即ち念に應じ目の前に現じて在ます。故に近縁と名くるなり」と。次に遠とは、雜行なり。衆生佛を見たてまつらんと願ぜざれば、佛即ち念に應ぜず、目の前に現じたまはず。故に遠と名くるなり。但し親近の義、是一なるに似たりと雖も、善導の意、分ちて二と爲す。其の旨『疏』の文に見えたり。故に今引釋する所なり。 第三に無間有間對といふは、先づ無間とは、正助二行を修する者は、阿彌陀佛に於て憶念間斷せず。故に「名けて無間と爲す」と云へる是なり。次に有間とは、雜行を修する者は、阿彌陀佛に於て憶念常に間斷す。故に「心常に間斷す」と云へる是なり。 第四に不回向回向對といふは、正助二行を修する者は、縱令別に回向を用ひざれども、自然に往生の業と成る。故に『疏』の上の文(定善義)に云く。「今此の觀經の中の十聲の稱佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは、即ち是歸命なり、亦是發願回向の義なり。阿彌陀佛と言ふは、即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に、必ず往生を得」と。已上 次に回向といふは、