雜行を修する者は、必ず回向を用ふるの時、往生の因と成る。若し回向を用ひざるの時は、往生の因と成らず。故に回向して生を得べしと雖もと云へる是なり。 第五に純雜對といふは、先づ純とは、正助二行を修する者は、純ら是極樂の行なり。次に雜とは、是純ら極樂の行に非ず。人天及以び三乘に通じ、亦十方淨土に通ず。故に雜と云ふなり。 然れば西方の行者、須く雜行を捨てて正行を修すべしなり。 問て曰く。此の純雜の義、經論の中に於て其の證據有りや。答て曰く。大・小乘の經・律・論の中に於て純雜の二門を立つること、其の例一に非ず。大乘には即ち八藏の中に於て、而も雜藏を立つ。當に知るべし、七藏は是純、一藏は是雜なり。小乘は即ち四含の中に於て、而も雜含を立つ。當に知るべし、三含は是純、一含は是雜なり。律には則ち二十犍度を立てて、以て戒行を明す。其の中に前の十九は是純、後の一は是雜犍度なり。論には則ち八犍度を立てて、諸法の性相を明す。前の七犍度は是純、後の一は是雜犍度なり。賢聖集の中に、『唐』・『宋』兩傳に、十科の法を立てて高僧の行德を明す。其の中に前の九は是純、後の一は是雜科なり。乃至『大乘義章』には、五聚の法門有り。前の四聚は是純、後の一は是雜聚なり。亦顯敎のみに非ず、密敎の中にも、純雜の法有り。謂く山家の『佛法血脈譜』に云く、一には胎藏界の曼陀羅の血脈の譜一首、二には金剛界の曼陀羅の血脈の譜一首、三には雜曼陀羅の血脈の譜一首、前の二首は是純、後の一首は是雜なり。純雜の義多しと雖も、今略して小分を擧ぐるのみ。當に知るべし、純雜の義、法に隨ひて不定なり。茲に因て、今善導和尚の意は、且く淨土の行に於て純雜を論ずるなり。此の純雜の義、内典のみに局らず、外典の中に