其の例甚だ多し、繁きを恐れて出さず。 但し往生の行に於て、而も二行を分つこと善導一師のみに限らず。若し道綽禪師の意に依らば、往生の行多しと雖も、束ねて二と爲す。一には謂く念佛往生、二には謂く万行往生なり。若し懷感禪師の意に依らば、往生の行多しと雖も、束ねて二と爲す。一には謂く念佛往生、二には謂く諸行往生なり。惠心之に同じ。是の如きの三師、各々二行を立てて、往生の行を攝す。甚だ其の旨を得たり。自餘の諸師は然らず。行者應に之を思ふべし。
『往生禮讃』に云く「若し能く上の如く念念相續して、畢命を期と爲る者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何を以ての故に、外の雜縁無し、正念を得るが故に、佛の本願と相應することを得るが故に、敎に違せざるが故に、佛語に隨順するが故なり。若し專を捨てて雜業を修せんと欲する者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。何を以ての故に、乃し雜縁亂動す正念を失するに由るが故に、佛の本願と相應せざるが故に、敎と相違せるが故に、佛語に順ぜざるが故に、係念相續せざるが故に、憶想間斷するが故に、廻願慇重眞實ならざるが故に、貪瞋諸見の煩惱來り間斷するが故に、慙愧悔過有ること無きが故に。 又相續して彼の佛恩を念報せざるが故に、心に輕慢を生じ業行を作すと雖も常に名利と相應するが故に、人我自ら覆ひて同行善知識に親近せざるが故に、樂みて雜縁に近づきて、往生の正行を自障障他するが故に。何を以ての故に。余比日自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして、專雜異有り。但意を專にして作さ使むれば、十は即ち十ながら生ず。雜を修するは到心ならざれば、千が中に一も無し。此の二行の得失、前に已に辨ぜるが如し。仰ぎ願はくは一切の往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身に彼の國に生ぜんと願わん者は、行住坐臥に、必ず須く心を勵まし己を剋して晝夜に廢すること莫るべし。畢命を期と爲して、上一形に在るは、少しき苦に似たれども、前念に命終して後念に