但本師金口の説のみにあらず。十方の諸佛共に傳證したまふ」と。
私に問て曰く。何が故ぞ六方諸佛の證誠、唯念佛の一行に局るや。答て曰く。若し善導の意に依らば、念佛は是彌陀の本願なり、故に之を證誠す。餘行は爾らず、故に之無し。 問て曰く。若し本願に依て念佛を證誠せば、『雙卷』・『觀經』等に念佛を説く時、何ぞ證誠せざるや。答て曰く。解するに二の義有り。一に解して云く。『雙卷』・『觀經』等の中に、本願の念佛を説くと雖も、而も兼ねて餘行を明す。故に證誠せず。斯の經には一向に純ら念佛を説く、故に之を證誠す。二に解して云く。彼の『雙卷』等の中に、證誠の言無しと雖も、斯の經に已に證誠有り。此に例して彼を思ふに、彼等の經中に於て、説く所の念佛に、亦應に證誠の義有るべし。文は此の經に在りと雖も、義は彼の經に通ず。故に天台の『十疑論』に云く。「又阿彌陀經・大無量壽經・鼓音聲陀羅尼經等に云く。釋迦佛、經を説きたまふ時、十方の世界に各々恒河沙の諸佛有まして、其の舌相を舒べて、徧く三千大千世界に覆ひて、一切衆生、阿彌陀佛を念じ佛の本願に乘じて、大悲願力の故に決定して極樂世界に生ずることを得と證誠したまふ」と。
[一五、護念章]
六方の諸佛、念佛の行者を護念したまふの文
『觀念法門』に云く。「又彌陀經に説くが如し。若し男子・女人有りて、七日七夜、及び一生を盡くして、一心に阿彌陀佛を專念して、往生を願ずる者は、此の人常に六方恒河沙等の佛の、共に來りて護念したまふことを得、故に護念經と名く。護念の意は、亦諸の惡鬼神をして便りを得しめず、亦橫病・橫死、橫に厄難有ること無く、一切の灾鄣自然に消散するなり、