佛惠明淨日 除世癡闇冥
此の二句は莊嚴光明功德成就と名く。佛本何が故ぞ此の莊嚴を興したまふと。有る國土を見そなはすに、復項背に日光ありと雖も愚癡の爲に闇まさる、是の故に願じて言たまはく。我が國土の所有の光明能く癡闇を除て佛の智慧に入らしめて、无記の事を爲さじ。亦云く。安樂國土の光明は如來の智慧の報より起るが故に能く世の闇冥を除く。『經』(維摩經卷下)に言たまはく。「或は佛土有り光明を以て佛事を爲す」。即是は此なり。是の故に「佛慧明淨日除世癡闇冥」と言たまふと。
梵聲悟深遠 微妙聞十方
此の二句は莊嚴妙聲功德成就と名く。佛本何が故ぞ此の願を興したふと。有る國土を見そなはすに、善法有りと雖も名聲遠からず、名聲有て遠と雖も復微妙ならず。名聲有て妙へに遠けれども復物を悟らすること能はず、是の故に此の莊嚴を起したまへり。天竺國には淨行を稱して梵行と爲す。妙辞を稱して梵言と爲す。彼の國に梵天を貴重すれば、多く梵を以て讃を爲す。亦言、中國の法梵天と通ずるが故なり。「聲」は名なり。名は謂く安樂土の名なり。『經』(平等覺經卷一意)に言たまはく。「若し人但安樂淨土の名を聞て往生を欲願するに亦願の如くなることを得」といえり。此れは名の物を悟らする證なり。『釋論』(智度論卷三八意)に言はく。「斯の如きの淨土は三界の所攝に非ず。何を以て之を言ふとならば、欲无きが故に欲界に非ず、地居なるが故に色界に非ず、色あるが故に无色界に非ず。蓋し菩薩の別業の致す所のみ」と。有を出で而て有なるを 出有は謂く三有を出、而て有は謂く淨土の有なり 微と曰ふ。名能く開悟するを妙と曰ふ 妙は好なり。名を以て能く物を悟す故に妙と稱す 是の故に「梵聲悟深遠微妙聞十方」と言たまへりと。