又前の序の中に就て復分ちて二と爲す。一に「如是我聞」よりの一句を名けて證信序と爲す。二に「一時」より下「云何見極樂世界」に至る已來は、正しく發起序を明す。
[證信序]
初めに證信と言ふは、即ち二義有り。一には謂く「如是」の二字は即ち總じて敎主を標す。能説の人なり。二には謂く「我聞」の兩字は、即ち別して阿難を指す。能聽の人なり。故に「如是我聞」と言ふは、此れ即ち二の意を雙べ釋するなり。又「如是」と言ふは、即ち此は法を指す、定散兩門なり。「是」即ち定むる辭なり。機行ずれば必ず益す。此は如來の所説の言錯謬無きことを明す、故に「如是」と名く。又「如」と言ふは、衆生の意の如しと、心の所樂に隨ひて佛即ち之を度したまふ。機敎相應せるを復稱して「是」と爲す、故に「如是」と言ふ。又「如是」と言ふは、如來の所説を明さんと欲す。漸を説くことは漸の如し、頓を説くことは頓の如し、相を説くことは相の如し、空を説くことは空の如し、人法を説くことは人法の如し、天法を説くことは天法の如し、小を説くことは小の如し、大を説くことは大の如し、凡を説くことは凡の如し、聖を説くことは聖の如し、因を説くことは因の如し、果を説くことは果の如し、苦を説くことは苦の如し、樂を説くことは樂の如し、遠を説くことは遠の如し、近を説くことは近の如し、同を説くことは同の如し、別を説くことは別の如し、淨を説くことは淨の如し、穢を説くことは穢の如し、一切の諸法を説くこと千差萬別なり。如來の觀知歴歴了然として心に隨ひて行を起し、各々益すること同じからず。業果法然として衆て錯失無し、又稱して是と爲す。故に「如是」と言ふ。「我聞」と言ふは、阿難は是佛の侍者、常に佛後に隨ひて多聞廣識なり、身座下に臨みて能く聽き能く持ちて、敎旨親しく承けて傳説の錯無きを表することを明さんと欲す、故に「我聞」と曰ふなり。又證信と言ふは阿難佛敎を稟承して、末代に傳持す、衆生に對する爲の故に、是の如きの觀法我佛に從ひて聞くといふことを明して、可信を證誠せんと欲す。故に證信序と名く。此は阿難に就て解するなり。